ヘッセと猫の画像
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ヘルマン・ヘッセのプロフィール
ヘッセ写真  
出生:1877年7月2日。南ドイツシュヴァーベン地方の小さな町カルヴに産まれた。
父ヨハネス・ヘッセと母マリー・グンデルトの間に、6人の子供が生まれたが、二児は早逝。
ヘッセは3番目の子供として生を受ける。
 
 
 
幼年時代 幼年のヘッセは利発でおませな子供であったが、負けん気の強い子供であったようで、母の日記には「ヘルマンは幼稚園に通っている。激しい気質が悩みの種」と記されていたようだ。
一方すでにこの頃、詩のようなものが口をついて出ていたようだ。
少年時代 ヘッセは幼い頃スイスのバーゼルに移ったが、9歳の時再びカルヴに戻っている。
その後13歳までカルヴのラテン語学校に通ったのだが、この4年間の生活は、出版物の「デーミアン」や「車輪の下」「ゲルバースアウ」などに記されている。
14歳の時、目的のマウルブロン神学校に入学しながら、一年も経たないうちに脱走を企てる。この時の脱走は、ヘッセの内面の苦悩を物語る事件として有名なもので、後年の作品「車輪の下」の題材にもなている。脱走の翌日捕まったヘッセは孤独を味わい、精神の危機が訪れる。この当たりは、デーミアンの第4章にも比較することが出来る。
やがて新学期になっても、ヘッセの精神は学業に耐えられなくなり、自殺を企てたりもした。
翌年、平静を取り戻したかに見えたヘッセだったが、カンシュッタトの高校に編入するも、反抗的な態度が目立ち、1年後には退学になる。
学業に見切りをつけた両親に仕事も与えられるが、ここも3日で逃げ出してしまう。その後しばらく両親の元で家業などを手伝ったり、書庫にこもって読書の生活が続くが、1894年には自発的にカルヴの機械工場で働くようになる。このお陰か少年の精神的危機も次第に遠のいていったようだ…
青年時代 18歳になったヘッセは工場を止め、テュービンゲンのヘッケンハウアー書店の見習いとなるが、ここでも読書と創作に気を取られていたためか、良い店員ではなかったようだ。
彼は特にゲーテやロマン派の作家に親しみ、22歳の時処女詩集である「ロマン的な歌」を自費出版し、次に散文集「真夜中過ぎの1時間」を公刊したが、売れ行きははかばかしくなく、やがて仕事も失う。 しかし、この散文集がリルケやショルツに認められたことは、彼にとってほのかな自信となった。
秋になってヘッセは、バーゼルのライフ書店に移るが、この時から彼にとって実り豊かな時期となったバーゼル時代が始まる。この町に来てからヘッセは交友関係が広まり、歴史家のヴァッケルナーゲルや美術史家ヴェルフリーン、ニーチェ研究家ヨエルなどの知己を得、また牧師ラ・ロッシェルの家庭を知り、「ヘルマン・ラウシャー」がライヒ書店から出版された。
更には作家パウル・イルクのすすめで、ベルリンの大出版社フィッシャーはヘッセに新作を依頼し、1904年「ペーター・カーメンツィント」(邦訳:郷愁)が表われ、ヘッセの文壇的地位は確立する。
ガイエンホーフェン時代 1904年マリーア・ベルヌイを結婚したヘッセは、ボーデン湖畔の漁村ガイエンホーフェンに移り住み、創作に専念する。マリーアはヘッセよりも9つも年上で神経質な人だった。
ガイエンホーフェンの生活は8年続くが、その間のヘッセの執筆は比較的順調で、最大の収穫は「車輪の下」であった。「車輪の下」はヘッセが脱走した頃の自伝的小説で、教育制度による鋭い批判によって大きな反響を呼んだ。
またこの頃の「ゲルトルート(邦訳:春の嵐)」は青春の過ちと諦念による幸福を描いたもので、数年後発表された「ロスハルデ(邦訳:湖畔の家)」と同様芸術家小説である。
第一次大戦時代
以降
1911年夏、友人と東南アジア旅行を企てたのは一見安定したかに見える結婚生活からの逃避であり、西欧文化からの逃避だった。
マリーアとの結婚生活が順調だったのは数年で、「ロスハルデ」の作中にも片鱗がうかがえる。
1912年ヘッセは家族と共にベルン郊外に移住する。やがて1914年、第一次大戦勃発とともに、捕虜慰問活動に専念し、控えめに与えた短い警告文のため、非国民扱いされる。
ドイツ出版界からもボイコットされ、経済的にも苦境に立たされるヘッセ。だがこのときヘッセを支持してくれたのは後の西ドイツ大統領ホイスとロマンロランだった。ジャーナリストだったホイスはヘッセを擁護し、ロマンロランは「この悪魔的戦争の最中にあって、真にゲーテ的態度を保持した人」と驚嘆した。
1915年放浪の散文詩とも言うべき「クヌルプ(邦訳:漂白の魂)」が刊行され、この作品はヘッセ文学の極致であった。
しかし戦争のため一家には不幸が訪れる。1916年には父の死、ついで末子の重患、加えて妻の精神病は悪化の一途を辿り、ヘッセ自身も激しい神経障害に悩み、精神科医ラングの治療を受けることになる。これがヘッセの生活と文学に転機をもたらし、すなわちヘッセはフロイト派の精神分析を知り、後期ヘッセの第一作といわれる「デーミアン」が誕生したのである。
そして1962年(85歳)8月9日、脳出血のため睡眠中に死去。遺体は、ルガーノ湖畔の聖アボンディオ教会墓地に埋葬された…
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