| 1877年7月2日 |
南独シュヴァーベン地方の小都市カルヴに産まれる。 |
| 1880年(3歳) |
妹マルラ産まれる。 |
| 1881年(4歳) |
ヘッセ一家はスイスのバーゼルに移住。両親は海外布教師の指導にあたる。 |
| 1882年(5歳) |
弟のハンスが産まれる。(弟は後に自殺する) |
| 1884年(7歳) |
同志社の創立者新島襄がヘッセ家を訪問する。 |
| 1886年(9歳) |
ヘッセ一家がカルヴに戻る。 |
| 1890年(13歳) |
シュヴァーベンの州試験受験のため、ゲッピンゲンのラテン語学校に転校する。 |
| 1891年(14歳) |
7月州試験に合格。9月マウルブロンの神学校に入学。寄宿生活に入る。 |
| 1892年(15歳) |
3月に神学校を脱走。ノイローゼのため5月に休学。後に退学し、自殺を企てるが失敗する。
11月にカンシュタットの高校に編入するも、1年足らずで退学になる。 |
| 1893年(16歳) |
10月にエスリンゲンのマイアー書店の見習いとなるものの、3日と続かず、父の出版の手伝いをする。
祖父のグンデルトが死す。 |
| 1894年(17歳) |
6月、カルヴのペロット機械工場の見習い工となる。 |
| 1895年(18歳) |
この頃から詩作を始める。10月、テュービンゲンのヘッケンハウアー書店に見習いとして雇われる。 |
| 1898年(21歳) |
見習いを卒業し、書店員に昇格。友人達と文学のサークルを作る。 |
| 1899年(22歳) |
「ロマン的な歌」「真夜中過ぎの1時間」を刊行(リルケに認められる)。秋にバーゼルの書店へと移る。 |
| 1901年(24歳) |
「ヘルマン・ラウシャー」をライヒ書店より刊行。春にイタリア旅行に出かける。 |
| 1902年(25歳) |
母に捧げる「詩集」刊行の直前、母が死す。 |
| 1903年(26歳) |
再びイタリアに旅行。書店を退職し、文筆に生きる決心をする。 |
| 1904年(27歳) |
「ペーター・カーメンツィント」がフィッシャー書店より刊行され、ヘッセの出世作となる。
「ボッカチオ」「聖フランシス」刊行。9月マリーアと結婚。漁村のガイエンホーフェンに移住する。 |
| 1905年(28歳) |
「ペーター・カーメンツィント」により、バウエルンフェルト賞を受ける。長男ブルートが誕生する。 |
| 1906年(29歳) |
「車輪の下」刊行。この期の代表作となる。 |
| 1907年(30歳) |
風刺作家ルートヴィヒ・トーマらと共同編集で、半月刊誌「3月」を編集。「この岸」を刊行。 |
| 1908年(31歳) |
平凡な市民生活を扱った「隣人たち」を刊行。 |
| 1909年(32歳) |
作家ラーベルをブラウンシュヴァイクに訪ねる。次男ハイナー誕生する。 |
| 1910年(33歳) |
音楽家小説「ゲルトルート」刊行。スイスの音楽家達と交遊を深める。 |
| 1911年(34歳) |
詩集「途上」刊行。友人の画家シュトゥルツェンエッガーと東南アジアに旅行。三男マルティーン誕生。 |
| 1912年(35歳) |
「まわり道」刊行。スイスの首都ベルン郊外の画家ヴェルティの別荘に移住。孤独感が深まる。 |
| 1913年(36歳) |
紀行「インドから」刊行。 |
| 1914年(37歳) |
画家小説「ロス・ハルデ」刊行。7月第一次世界大戦が勃発。ベルンで戦争捕虜慰問事業局に奉仕。
「おお、友よ。そんな調子はよそう!」という平和主義的短文を発表したため、非国民扱いを受け、ドイツのジャーナリズムからボイコットされる。 |
| 1915年(38歳) |
「クヌルプ」刊行。小品集「路傍」、詩集「孤独者の音楽」刊行。ロマンロランが8月ヘッセを訪れる。 |
| 1916年(39歳) |
「青春はうるわし」刊行。父の死に加えて妻の精神病が悪化する。ヘッセ自身も神経症に悩み、ユングの高弟ラングの治療を受け、フロイトの著作に親しむ。 |
| 1918年(41歳) |
「芸術家と精神分析」をフランクフルト新聞に発表。この頃から水彩画を描き始める。 |
| 1919年(42歳) |
ジンクレールという匿名で「デーミアン」を発表し、フォンターネ章が贈られたが、一年後に実名を出し、受賞を辞退する。評論「ツァラトゥスの再来-ドイツ青年に一言」を匿名で発表。「メールヒェン」「小さな庭」刊行。マリーア夫人と別れ、子供達も他所に預け、モンタニョーラに移り、以後ここに定住する。個人編集の雑誌「われ、生ある者を呼ぶ」を刊行。(23年まで発行は続いた) |
| 1920年(43歳) |
詩と水彩画集「画家の詩」、詩集「さすらい」、中編「クリングゾールの最後の夏」などを発表。
戦後の窮乏生活が続く。「一生のうちでもっとも非生産的で悲しい年」とヘッセは嘆いている。 |
| 1921年(44歳) |
「新詩集」を刊行。 |
| 1922年(45歳) |
インドの詩と副題される「シッダールタ」を刊行。第一部はロマンロランに、第二部は日本在住の従弟ヴィルヘルム・グンデルト博士に捧げられた。ロマンロランと再会も果たす。 |
| 1923年(46歳) |
マリーア夫人と正式に離婚。T・S・エリオット来訪。「ジンクレールの覚書」発表。スイス国籍を取得。 |
| 1924年(47歳) |
1月、ルート・ヴェンガーと結婚。 |
| 1925年(48歳) |
ノヴァーリスとヘルダーリンの「生活記録」を編集刊行。秋南独に赴き、トーマス・マンを訪問、詩人リンゲルナッツと出会う。 |
| 1926年(49歳) |
「絵本(風物帖)」を刊行。精神的にも肉体的にも危機が訪れる。 |
| 1927年(50歳) |
「荒野の狼」「ニュルンベルクの旅」刊行。二度目の妻であるルートと離婚。
友フーゴー・バルの「ヘッセ伝」が刊行されたが、その直後バルは41歳の若さで死す。 |
| 1928年(51歳) |
評論集「観察」、限定版詩集「危機」刊行。 |
| 1929年(52歳) |
次第に健康を取り戻す。「夜の慰め」「世界文学文庫」を刊行。 |
| 1930年(53歳) |
長編「ナルツィスとゴルトムント(邦訳:聖母の泉、または知と愛)」を刊行。 |
| 1931年(54歳) |
8月、12年住んだ家を去り、新居に移る。11月、美術史家ニノン・ドルビンと結婚。 |
| 1932年(55歳) |
ゲーテ没後100年祭にあたり、ロマンロランの雑誌「ヨーロッパ」に寄稿。「東方巡礼」刊行。 |
| 1933年(56歳) |
ヒトラー、政権を獲得。マンが国外亡命。ヘッセは亡命作家の資金集めに努力。「小さな世界」を刊行。 |
| 1934年(57歳) |
詩抄「生命の木から」をニノン夫人に捧げる。
「ガラス玉遊戯」の序章と「雨ごい師」を「ノイエ・ルントシャウ」誌に発表する。 |
| 1935年(58歳) |
「寓話集」を刊行。11月、弟のハンスが自殺。 |
| 1936年(59歳) |
ドイツ軍のライン州進駐。スイス最高の文学賞「ケラー賞」を受賞する。 |
| 1937年(60歳) |
回想録「思い出草」、「新誌抄」を刊行。 |
| 1939年(62歳) |
ナチス政権化のドイツにおいて、「好ましからぬ作家」として用紙の配給を絶たれる。 |
| 1941年(64歳) |
スイス版の全集を出す協定が成立し、絶版となっていた「真夜中過ぎの1時」が再販される。 |
| 1942年(65歳) |
スイス版「詩集」刊行される。 |
| 1943年(66歳) |
大作「ガラス玉遊戯」二巻が、スイスで刊行される。 |
| 1944年(67歳) |
生涯の友、ロマンロランが死す。 |
| 1945年(68歳) |
平和蘇る。復活祭にはバーゼル放送局に、「平和に向かって」を寄せる。 |
| 1946年(69歳) |
8月、ゲーテ生誕の日にゲーテ賞を受け、秋にノーベル文学賞をも受ける。ドイツ版刊行の道も再開される。 |
| 1947年(70歳) |
ベルン大学より名誉博士号を贈られる。春に、ジッド来訪。 |
| 1948年(71歳) |
「初期散文集」を刊行。 |
| 1949年(72歳) |
故郷カルヴにちなんだ文集「ゲルバースアウ」刊行。 |
| 1950年(73歳) |
ブラウンシュヴァイク市よりラーべ賞を贈られる。マンの誕生日に際して、書簡を贈る。 |
| 1951年(74歳) |
「書簡集」、「後期散文集」刊行。ジッド追悼を書く。 |
| 1952年(75歳) |
75歳の誕生を祝う諸家の記念講演集「ヘッセへの感謝」が出版され、ドイツやスイス各地で記念行事。
「全作品集」6巻がズールカンプ社よ公刊。 |
| 1954年(77歳) |
ホイス大統領より平和勲章を贈られる。「ヘッセ=ロラン往復書簡集」刊行。 |
| 1956年(79歳) |
カールスルーエ市にヘルマン・ヘッセ賞が設けられる。 |
| 1957年(80歳) |
80歳を祝して、「全作品集」に1巻増補、刊行される。 |
| 1959年(82歳) |
増補版「書簡集」刊行される。 |
| 1960年(83歳) |
豪華本記念帖「ヘッセ・アルバム」刊行。 |
| 1961年(84歳) |
新詩集「階段」(私家版) |
| 1962年(85歳) |
8月9日、脳出血のため睡眠中に死去。ルガーノ湖畔の聖アボンディオ教会墓地に埋葬される。
ニノン夫人は、1966年9月に世を去った… |